#287 戦略眼と現実解 利便性の代替機能を掘り下げることで真の潜在ニーズが見えてくる

先日、右手指を怪我して、パソコンで文字を打ち込むのに、ほんの少しですが、不便を感じたことがありました。擦り傷程度で数日で治りました。

困ったことの本質を問い直す

パソコンで文字を打ち込むのができないことが問題ではなく、文章を書くこと自体の利便性が失われたことに問題があるのですが、何よりも、文章を書くことの目的を達成できないというのが問題です。私にとって書くことは、気づいたことや閃いたことを記録し、文章にすることで整理し、まさに、創作することができなくなるということが問題の本質です。

代替手段がないというリスク

指の怪我はすぐに治りましたし、不便ではあっても他の指で入力できるので大きな問題には至るものではありません。しかし、代替手段がなければどうなるのでしょうか? 例えば、今は、誰もがスマホを持ち歩いて、スーパーや喫茶店での支払いもスマホで行い、電車の改札もスマホで行い、ゲリラ雷雨が近づいて天気が心配になったらスマホで降雨域を確認して行動を決め、スマホで地図を調べて乗り換え経路や目的地までの道を確かめたり、電車の移動の時間にメッセージのやり取りをしたり動画を観たりしています。 そのスマホを落として壊してしまったり、紛失してしまったり、何よりも、通信障害で一時的にせよ使えなくなったりしたら、一体、どうなるのでしょうか? 

私たちはものすごい利便性の中で暮らしていますが、よくよく考えると、それが使えない時の代替手段を持たないまま日常生活を送っているというものすごいリスクを抱えて暮らしていることになります。

抱えているリスクの意味

ところで、私の場合であれば、書くという創作活動ができる自由があり、利便性によってそれが確保されている訳ですが、代替手段がないままその利便性が失われたとき、享受している自由は奪われます。利便性が便利であればあるほど、その利便性が浸透すればするほど、それを喪失した時の損害は、物的であるという以上に、自由の喪失ということにもなります。

当コラムでは「自立と自律」をテーマに書き進めてきましたが、自由が確保されてはじめて「自立と自律」であることができます。そもそも、自由という人権が守られているからこそなのです。

利便性の重箱の底ではなく、利便性がない場合の代替手段に隠された潜在機能を深掘りする

もう一つ、本コラムで指摘しておきたいことは、その利便性を失った時に「何が困るのか」ということを突き詰めて考えるということの重要性です。指を怪我したことで被ったのはパソコン入力という作業が不便になったことですが、それ以上に、創作の目的である、文章を書くことによって自己を表現することができないということが本質として困ることです。もし、代替手段がなければ、創作という自由も奪われることになります。

代替手段の中に本質的な潜在機能が隠されているのかも知れません。パソコンと同等かそれ以上に創作の自由さえ確保できれば問題はありません。

スマホが使えない事態に陥った時の代替手段を考えることでイノベーションが生まれるのかも知れません。単に利便性の追求ではなく、本当に失われたらこまることに加えて、「不自由さから解放される自由とは何か」によって利便性を考えるのであれば、そして誰もが「自立と自律」して生きていけることの実現につながるのであれば、それは持続可能な社会の発展につながっていくのだと考えます。

サステナブル・イノベーションズ株式会社 代表取締役社長 池邊純一

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