#245 持続可能性(サステナビリティ、持続可能な社会の発展)の再考

 世界が新型コロナウイルスの感染拡大(パンデミック)を経験して以降、多くの人々がポストコロナの時代のニューノーマル(新常態)を予言して、近代化の時代に目指してきた経済の成長(短期的利益追求の経営、株主価値追求の経営)ではなく、これからはサステナビリティ(持続可能な社会の発展)を追求していく時代だと語り始めています。

 今回のパンデミックが終息するまでに数年はかかるという人達も多く、さらには、新型コロナウイルスとの共存の社会(ウイズコロナ)になると考えている人達も多くいます。サステナブル(持続可能な社会の発展)であるために大事なのは、社会の復元力(レジリエンス)であるとも言われています。なお、世界中で人々の行動が制限されて原料や部品の供給が断たれ、これまで築いてきた高効率、コスト最小のグローバルサプライチェーンは寸断されました。そこで、多少の非効率、コスト高になっても、供給が経たれたときにサプライチェーンを維持できるような余裕(allowance)冗長性(redundancy)も必要であろうという議論も湧いてきました。余裕や冗長性は、効率やコストの面から非合理的と考えられていますが、復元力(レジリエンス)を確保するためには必要なものです。そこで、どんなリスクを想定し、どこまで備えておくかという思考が重要になってきます。これは、 堅牢さ(壊れにくさ、ロバスト性) と言い換えることもできます。復元力(レジリエンス)を高めるには、その前提として堅牢さ(壊れにくさ、ロバスト性)を確保しておくことが必要になります。

 サステナブル(持続可能な社会の発展)に向けた社会は、人々が互いに助け合って共生(Symbiotic)して生きていける社会であるとも言えます。その一方で、今の社会には分断の思考が蔓延しています。パンデミックに際して、それを抑え込むことができれば自分の手柄と声高に主張し、状況が悪化したら他人のあら探しをして非難し自分に落ち度はないと主張する人もいます。そういう人は成果を上げるためだけに行動し、また、自分が得することを自分だけのものにしようと囲い込もうとし、自分の利益に反することは、徹底的に排除しようとします。それは自分さえ良ければ良いという自分中心の利己的な考え方です。危機に瀕してどのように行動するかで人間の値打ちが決まりますが、そうした人がいると社会は敵と味方に分かれて分断が進んでいきます。パンデミックのような状況では、人々は協力して難局を乗り越えていかなければなりません。生態系(ecosystem)という言葉があります。自然界には淘汰(自然選択)があるなかで環境に適した種が絶滅することなく生き残っていくと考えられています。しかし、それは生態系の一面で会って、自然界において一つの種のみが存在して生き残れる訳ではなく、むしろ、多くの種が共生しながら生きているといっても良いでしょう。生態系は多様性に溢れてこそ繁栄していけるのです。人間の社会も繁栄していくためには多様性(Diversity)が必要です。そしてさらに多様性のある社会にする上で大事なことは、繁栄する社会から誰一人として取り残さないという包摂(Inclusion)という考え方です。共生の社会が繁栄していくためには、多様性を受容れて包摂的な社会となっていることが重要です。

 大量生産・大量消費により近代化を目指していた20世紀の社会は、数多くの人を生産に動員して、生産性を向上させることによってより多くの富を得る仕掛けで動いていました。人々は、企業の生産計画に基づいて、分業しながら自分に課せられた役割を果たすことで生産活動に従事し(20世紀型の働くということのモデル、労働)、その対価として賃金(報酬)を得ていました(企業にとって労働はコストと見なされていた)。そして、事業がグローバル規模で拡大し近代化が世界に広がっていくとともに、富による繁栄も地球規模で広がっていきました。しかし、この仕掛けを実現するためにはより多くの資金が必要であり、近代化は資本の集中によって成り立っていました。そして投下した資本からいくら儲かったかを評価するために投資利益率の向上(短期的な利益の追求)が求められ、資本主義が先鋭化し資本家と労働者の間で経済格差が広がっていきました。一方、企業が継続してサステナブル(持続可能な社会の発展)を追求していくということは、自然環境や自然の中にある生態系を守り、多様な人々の生きていく人権を損なうことなく、多様性のある包摂的な社会を築いていくということです。21世紀のこれからの社会にあっては、合理性を追求して富を築いて繁栄していくばかりでなく、人類全体として豊かさのある社会を築いていかなければなりません。一人ひとりも、合理性の中で、自分の時間を提供して報酬を得て働く(労働する)ばかりでなく、豊かさのある社会にするために、自分の生きる生き方の中に社会的価値を見いだして、自律(Autonomy)して生きていかなければなりません。自分の生きる生き方の中に社会的価値を見いだしていくということは内発的(Intrinsic)な生き方です。それは、外発的に報酬を求めて生きる生き方とは異なる。21世紀においてサステナブル(持続可能な社会の発展)を実現していくために、人々は内発的に自律して生きていくことが求められます。

 人は、他人から言われて行動することを嫌がるものです。しかしその一方で、自分なりの価値観や生き方を形成していくことは難しく、ただ安穏と暮らしていては、それは見つかりません。それよりは、誰かが開拓した線路に乗って収入を得て生きていた方が楽だとも言えます。内発して自律して生きていくためには、自分なりの道を切り拓いていかなければならなりません。日本の教育は、詰込み型だとか、ゆとりのある教育が必要だとか言われてきました。しかし、一貫して行われてきたことは、産業にとって必要な人材を育てるという目的に沿った教育であり、産業にとって必要な知識を画一的に学習させるというものでした。そして、そうしたカリキュラムで育った人達に、俄かに「自分なりの価値観や生き方を形成しなさい」と言っても無理な話しです。日本には創造性を養う教育が必要と言われてきましたが、それを実現するためには、教育を計画する人達自身が「自分なりの価値観や生き方を形成する」という目的に目覚めなければなりません。民力(国民がさまざまな分野において持っている力(大辞林 第三版))という言葉がありますが、民力を養うには、単にリベラルアーツを教育課程に組み込むのではなく、互いに人権を尊重しあう自由と民主主義の理念によって 人格陶冶された個々の全人格 として、自分なりの価値観や生き方を形成するためのトレーニングが必要です。それは、社会の中で揉まれながら出来るものでもあり、一律の教育でなく、多様な価値観を受け容れながら鍛えられ学び取ることができることであり、利己的でなく包摂的な社会の中で育まれていくものです。

 人が生きていくためには収入が必要であり、サステナブル(持続可能な社会の発展)を追求していくためにも、人々が安心して収入を得て生きていけるようでなければなりません。新型コロナウイルスの世界的感染拡大が明らかにしたのは、リーマンショックといった金融破綻の連鎖と異なり、パンデミックは人の行動を抑制させ、社会から需要を蒸発させ、人々の生業を奪い取り、街中の日銭を回していく経済活動を停止させてしまうということであり、そうした経済活動がいかに脆弱なものであったかということです。しかし、生業を奪われ、そして、収入が途切れた状況を何とか持ちこたえようと苦しんだ時に、たとえどんなに脆弱な基盤の上に成り立っていようが、街中で生計を立てて生きている人達は皆、何としてもウイルスなんかに負けてはならないと思ったのではないでしょうか。確かに、生きるために収入を得なければならないという必死の思いもあったかも知れませんが、それ以上に、自分が携わってきた仕事が社会を回してきたし、社会の人達に貢献しているからこそ自分の仕事を終わらせてはならないと心に刻んだのではないでしょうか。日銭を回す、すなわち、短期利益を得ることともに、自分が携わる仕事を継続していくこと、それが持続可能な社会の発展(サステナブル)に結びついていくということの実感こそが、今回のパンデミックの中で人々が学び取ったことではないでしょうか。実感された社会的価値は、社会の中で共感され、生きていけるための収益を得る手段としてだけでなく、生きていくための根源的な力となっていくのです。そして、その力は、社会そのものを変革してく原動力となります。パンデミックはディスラプション(社会変革を巻き興すイノベーション)のきかけとなって、やがては、新たな社会の発展、新たな経済成長、ポストコロナの社会で生きていく人々の収益源へと結びついていくのです。

サステナブル・イノベーションズ株式会社 代表取締役社長 池邊純一

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