「幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいかとさらに尋ねる必要はもはやありません」 プラトン, 『饗宴』, 205A
「われわれが幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく」 アリストテレス『ニコマコス倫理学』
経済発展の世界観
現時点の考古学の通説では、人類の始まりは400万年から300万年くらい前(アウストラロピテクス)とも言われており、文明発祥は紀元前5300年頃(メソポタミア)であるとされています。その後、人の普遍的な権利として最も最初に確立したのが所有権だったと考えられています。また、生活を便利にするための工夫(技術革新)も人類の始まりとともに進められてきましたが、何といっても12世紀頃から進み出した自然科学の進歩が社会の発展に大きく寄与し、自然科学は論理実証主義の思考を生み出して社会科学としての経済学分野では経済合理性の追求がなされてきました。工業所有権の確立とともに1700年代中後半頃からイギリスで興った産業革命がいわゆる近代化というものを推し進め、そして資本主義がそれを強く促進してきました。この結果、社会生活は便利なものになり人類は裕福さ(モノの大量消費によって感じる豊かさ)を満喫してきましたが、その一方で、人々の間での経済格差は顕著となり人の普遍的な権利は疎外され不平等な社会になっていきました。更には、大量生産や大量消費によって排出される物質が地球温暖化や自然環境の破壊を引き起こしてきました。ここまでが経済発展の世界観であり人間観としての経済人モデルの社会であったと言うことができます。
社会発展の世界観
しかし、私達は経済発展だけで本当に幸福になったと言えるのでしょうか。生活をもっと効率よく便利なものに進化させ、かつ、地球温暖化問題や自然環境の破壊の解決のための新たな技術革新として、AI・ロボット技術、脱炭素化技術の開発が進められています(For Sustainability as a whole earth)。
経済発展は人々の生活にゆとりをもたらせたことも事実です。1776年の『アメリカ独立宣言』や1789年の『フランス人権宣言』で示された「普遍的な人の権利(人権)」を誰もが求める余裕を得ることもできるようになりました。そこでは自分自身の権利と合わせて他者の権利についても思いを馳せるようになり「多様性と包摂」が人類の共通課題として認識されるようになりました。かくして、私達の多くは社会発展の世界観として共生する社会人モデルの下で生きていくようになってきました。
経済発展の世界観の世界観の延長上に、投資や経営の仕組みも新たにESG(Environment,Social,Governance)として進化して、こうした社会問題の解決を下支えしはじめていますが、「多様性と包摂」の人権意識を土台として。地球温暖化、自然環境の破壊といった社会問題を解決しようという活動がSDGs(Sustainable Development Goals)に結びついて発展しています。
なお、今、所有権の問題は、個人情報の保護、あるいは、個人情報をどのように使われるかを選択する権利として再認識されつつあります。この分野の技術革新がこれからの社会発展の方向性として重要性が増してきています。
個の自由意志が主体の世界観
自分自身の権利と合わせて他者の権利についても思いを馳せる「多様性と包摂」の社会の先にある未来の私達世界観とはどのようなものでしょうか。おそらく、それは「人と人がお互いを尊重し合い、相互に協力しあって結びついていくことで、社会の発展を実現し、自らも成長していく」であると考えられます。そしてそこでは一人ひとりが「市民としての個の自立と自律」して、まさに、創発する社会人モデルによって生きていくことになります。
今、私達は自分の居場所と働く場所に縛られて生きています。都会のアーバンライフを謳歌したい人、自然豊かな田舎で暮らしたい人など、それぞれに自分の生きたい場所で日々を過ごしたいというのは誰しもの願望です。その一方で、自分のやりたいと思う仕事に就こうとすると、企業の立地条件に合わせて、そして、その企業が定めた働く時間帯に合わせて職場に通わなければなりません。最近はテレワークが普及してきていますが、どうしても対面で会って話がしたいとか、顧客に直接サービスを提供しなければならないとか、どうしてもそこには限界が発生して時間と場所に束縛した生き方を強いられることになります。人々がより一層「市民としての個の自立と自律」として活動していくためには、NBTP “Not Bind to Time and Place” 時間と場所に束縛されない生き方ができるようになる必要があります。これが将来に向けてのAI・ロボット技術の発展の方向性、即ち、NEXT disruption の方向性であると考えられます。
その先にある世界観
今、国連労働機関では、働きがいのある人間らしい仕事 “Decent Work” を提唱しています。人は社会と関わり合って経済活動をすることによって生きています。例え、AI・ロボット技術が進歩して人間の労働の多くを担うことができるようになっても、人間は常に「働きがいのある人間らしい仕事」を創造して生きていくものです。
本ページ冒頭に示したように、プラトンは証明する必要なく「人とは幸福に過ごすことを願う」ものであるとし、アリストは「常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく」と示しています。即ち、例えば、人はお金や地位や名誉を求めて生きてはいるものの、それはそのためではなく、根元的には幸福に生きたいがゆえにそれを求めるものと言えます。
人は社会と関わり合って経済活動をすることによって生きていくものなので、根元的に幸福に生きたいという願いを叶えるということとは、人は「働きがいのある人間らしい仕事」に就くことを実現していくことと同等に必要なことなのです。
【補足】
「社会の持続可能な開発」と「社会の持続可能な発展」
“Sustainable Development” は「持続可能な社会の発展」とも訳されてきました。国連が主導する開発経済という立場に立てば「持続可能な開発」となりますが、社会の内部から社会問題を自ら解決していこうという立場に立って、当社では、“Sustainable Development” を「持続可能な社会の発展」という日本語を用いています。
【用語の定義】
社会とは
『社会』をどのように定義するかは、『社会』をどのように捉えるかによって異なってきます。
- 「社会とは誰のことでしょうか。そんなものはありません」(1987.9.23 サッチャー)[7]
- 社会は独自の意識や目的を持たないけれども、個々人の行為の「意図せざる結果」によって生じた、個々人の決定や行為を制限する外在的状況として存在している。(吉田敬)[8]
- 「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである。(中略)彼は、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだと主張し、個人の意識を扱う心理学的な視点から社会現象を分析することはできない(以降略)(デュルケーム)[9]
『社会』が多義的であり定義に混乱が生じている理由は「物理的に形のあるものとして知覚できるものでもないのに、現実の世界においてあたかも存在しているように感じられ得るもの」であるからと言うことができます。すなわち、私たちは『社会』を直接に知覚し自然科学に還元して社会科学として定義することはできませんし、歴史的に見ても、観念として抽象的な意味を持ち始めたのは近代になってからであり、更には、政治体制、地域や民族、宗教の違いによっても、あるいは、その違いによらずとも『社会』のあり様は千差万別であり、必ずしも普遍性があるとは言えません。
結局「社会とは」という問いかけに対して言えることは、「社会現象」を解釈して『社会』を捉えるしかないということです。しかし、「解釈」によってということは「解釈の仕方」によって見解が異なってくるということを意味します。実際、存在論として「存在する/存在しない」という夫々の捉え方、「社会現象」の起源として「集団/個人」とする夫々の捉え方、制度論として「社会現象」を捉えるなど、今なお論争が続いていて『社会』の「解釈の仕方」も定まったものはありません。
また「社会秩序は如何にして可能か」という根本的な問いかけに対しても、解釈によって記述された定説を根拠(証明の前提条件となる命題)として証明するしかありません。その一方で「意図せざる結果」が生じるのが常であり、新たな事態に対しても経験論的な仮説によって説明するしかなく(例えば「人は利己的な生き物である」)、その経験論的な仮説を「意図せざる結果」を説明する道具(道具主義方法論)として使用して新たな仮説を立てて、その「意図せざる結果」を社会実験などによって証明できたるなら、その新たな仮説が「社会秩序は如何にして可能か」を説明し得る定説となります。その道具として使用した経験論的な仮説自体も正しいものと見なされることになります(循環理論ともなり得る)。
解釈によって『社会』の捉え方が規定されるということは、その学説を唱えた研究者の人間的要素(ヒューリスティックス、固定観念やバイアス)にもよっているということにもなります。すなわち、自然科学に還元して社会科学として定義できないために、『社会』の定義に人間的要素が含まれ得るということです。「社会は独自の意識や目的を持たないけれども、(中略)個々人の決定や行為を制限する外在的状況として存在している」とは言え、『社会』の定義そのものに人間的要素が含まれるなら、むしろ、人としての根元的な願いである「幸福の追求」を『社会』の定義の柱に据えるべきと言えます。
「幸福でありたいという願い」は人間の根元的で普遍的な感情であり、「幸福でありたいという願い」を叶えることを「社会の存在目的」としない『社会』の定義はあり得ません。『社会』を社会科学として扱うとしつつも、21世紀になって、とりわけ人権が重視され多様性と包摂性を重視されていることに鑑み、「人としての幸福の追求」を「社会の存在目的」として内在化して『社会』の定義に据えることも、これからの『社会発展』に向けた検討課題にする必要があると言えます。
このように『社会』は多義的であるので、ここでは大まかに『社会』を「その中に生活があり、生産活動があり、経済活動を含んで人々のつながりが形成している概念的な空間である」と定義しておくことにします。※[キーコンセプト]の『社会』についても併せてご参照下さい
幸福とは
辞書にある『幸福』の一般的な定義を以下に引用します。
- 心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。(広辞苑)
- 不自由や不満もなく,心が満ち足りている・こと(さま)。しあわせ。(大辞林)
- 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。(大辞泉)
- 不自由や不満もなく,心が満ち足りていること。しあわせ。(新辞林)
日本語の『幸福』の英訳としてしばしば使われる“happy”は“having feelings of pleasure, for example because something good has happened to you or you are very satisfied with your life”(ロングマン現代英英辞典)とされています。“happy” の日本語訳は「幸福な、幸せな、楽しい、満足な、(…に)満足して、幸せそうな、うれしそうな、うれしくて、喜ばしくて、(…を)うれしく思って」(Weblio英和辞書) であると示されています。日本語感覚では「幸福」も「ハッピー」(日本語化した英語)も、どちらかと言うと感情(主に喜怒哀楽)に近い意味合いを持っています。
一方、『幸福』は哲学発祥の古代ギリシャの時代、およそ2500年前より論じられてきた人類にとって古来より追い求めてきた「根元的なテーマ」です。
- ギリシャ語では“eudaemonia ユーダイモニア”という言葉が当てられ、英語では“a contented state of being happy and healthy and prosperous(幸福で健康で順調な満足した状態)”と訳されています(Weblio英和・和英辞典 「eudaemonia」に関連した英語シソーラスの一覧)
- 「ユーダイモニア」とは、ギリシャ語に由来する言葉であり、一般的には幸福や福祉と訳されるが、より本質的に「人間の繁栄・繁華」「祝福を受けた人々」といった訳も提案されている。これは語源的には、eu(「良い」)+daimōn(「精神」、「神霊」)という言葉に由来する。これらはArete(アレテー)とともに、アリストテレスの倫理学および政治哲学の中心的概念であり、アレテーについては一般的に「徳 」「卓越性」「実用的・倫理的知恵」と訳されている 。アリストテレスの著書ではユーダイモニアは最上の人間の善を指す言葉として使われており(*)、実用的哲学の目的は、いかにしてユーダイモニアを実現するか、それはどのようにすれば達成することができるかであった (Wikipedia 「ユーダイモニア」で2022.1.1に検索)。 (*) 幸福な生活には三種類(「快楽」(ヘードネー)を善とする享楽的な生活、「名誉」を善とする政治的な生活、「徳」「卓越性」(アレテーによる真理の探究を善とする観照的な生活)あると分類していた
- アリストテレスも「幸福主義」を唱えていました(以下の引用は、Wikipedia 「幸福主義」で2022.1.1に検索)。
- 幸福主義(eudaemonism)とは倫理の目的が幸福を得ることにあるとする思想上の立場。ギリシャ哲学の多くにはこの傾向があるが、中でもアリストテレスは、最高善は「幸福」(エウダイモニア、eudaimonia)であり、良く生き良く行為することが幸福と同じ意味であるとする。近代においても功利主義などはこの立場であるが、そこでは幸福は快楽を意味している(快楽主義)。カントは義務論の立場から幸福主義と対立する倫理学を展開した。善はそれ自体を目的とするものであって何かの手段として行うものではないという。
- アリストテレスは、われわれが求める「善きもの」には大別すると三種あるととなえる。そのひとつが「有用さ」である。すなわち、これは他のものを求める手段として役立つよさである。それに対し、それ自体が目的となるような「善きもの」としては「快楽」がある。しかし、快楽は、アリストテレスによれば、それ自身としても望ましいが、ときとして他のものの手段となるものである。だから快楽は、生活を幸福にするためのものであっても、もっとも価値が高いものとはいえない。最後に、もっとも価値の高い善きものとしての「最高善」がある。これこそが「幸福」(エウダイモニア)であり、人間を人間たらしめるもの、至上の価値である。それは、人間にのみそなわった理性の活動の完成によって実現する。
なお、①人間にとって根元的なテーマである、②一過性の快楽を追い求めたものではないという2点については、古代ギリシャを代表する「エピクロス派」「ストア派」「キュニコス派」ともに一致していますが、『幸福』について語る論者によって主張は異なっていました。
最近では、国際連合の持続可能開発ソリューションネットワークが幸福度調査レポート『世界幸福度報告』を発行しています。また、社会科学者によって現在行われている国際プロジェクト『世界価値観調査』も世界の異なる国の人々の社会文化的、道徳的、宗教的、政治的価値観を調査しています。ブータン王国では国民全体の幸福度を示す尺度として『国民総幸福量(国民総幸福感)“Gross National Happiness”』を定義して精神面での豊かさを「値」として評価・比較・考察しています。
- 幸せ経済研究所 国連「世界幸福度報告書」:人々の幸福は、コミュニティとの関り方に大きく関係する|幸せ経済社会研究所 (ishes.org)
- 国連「世界幸福度報告」 The World Happiness Report
- 国際プロジェクト「世界価値観調査」 WVS Database (worldvaluessurvey.org)
- 電通 #世界価値観調査 電通総研 (dentsu.com)
「幸福」は人間が感じている「心の豊かさ」にも関わり、単に、経済成長して裕福さ(大量消費によって得られるモノの豊かさ)だけでは得られないものでもあります。また、宗教観やその土地に浸透した文化や風習によっても左右されます。更には、脳が感じている「幸せな感覚」というものもあると考えられます。従って「幸福」とは何かについて一概にこうだと定義することはできません。 当社としては、「幸福」の定義を留保し、哲学者、東洋の思想家、社会学者、経済学者、人類学者、脳科学者の将来に示される見解を待って考えていくことにしています。 ※さらに詳細は「幸福」のページをご参照下さい。
【参考文献】
- アリストテレス著, 高田三郎翻訳, 『ニコマコス倫理学〈上〉(下)』, 岩波文庫, 岩波書店, 1971-1973.
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』を解読する:https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-aristoteles-ethica-nicomachea/
- プラトン著, 久保勉翻訳, 『饗宴』(改版), 岩波文庫, 岩波書店, 2008.
- 国際連合『世界幸福度報告』:https://worldhappiness.report/
- 国際プロジェクト『世界価値観調査』:https://www.worldvaluessurvey.org/wvs.jsp
- 枝廣淳子,草郷孝好,平山修一共著, 『GNH(国民総幸福): みんなでつくる幸せ社会へ』,海象社, 2011.
- 吉田敬著, 『社会科学の哲学入門』, 勁草書房, 2021.8.25 , p.3.
- 吉田敬著, 『社会科学の哲学入門』, 勁草書房, 2021.8.25 , p.45.
- エミール・デュルケーム – Wikipedia より引用(2021年12月31日検索)