1.日本社会の現在地
「意思決定の合理性は限定される」。これはハーバート・サイモンが提唱した『限定合理性』です。「リソースの制約がある中で、どんなに広範な情報を収集しても、得られる知識は断片でしかなく、予測される結果も不確実であり、それを補う経験にも偏りがあり、想像しうる選択肢もごく少数に限られており、合理的な意思決定をするには限界がある」というのがその内容です。(サイモン 1976 #1 pp.102-107 を参考に記載)
日本社会には特有の思考様式があります。例えば横並び主義のように、同じような事例があれば意思決定の選択肢として採用し、目新しいことは排除する思考様式です。また、バブル経済崩壊により萎縮し、長期にわたりデフレ経済を経験してきた日本社会は、効率化やコストダウンへの投資に明け暮れてきました。これらは「限定合理性」によると言えます。また、認知心理学で言うプロスペクト理論(確実な収益でなければ投資しないけれど(前者)、確実な損失の回避には投資する(後者))からも説明できます。
1.1. 破壊的イノベーションを起こさない今の日本社会
総務省統計局の情報によれば2011年に人口減少社会に転じました。必然的に経済規模も縮小し、高まる高齢者の人口比率の下で社会保障制度も破綻に向かっています。こうした破滅的状況を打開するには、経済発展の理論が示すように、イノベーション(創造的破壊と新結合)によって一人当たりのGDPを高めていく必要があります。しかし、失われた30年の間、日本人は、社会の在り様を変えるような破壊的イノベーション’(以下、ディスラプション)を起こしてきませんでした。
1.2. 規範型社会に向かう日本社会(重たい社会)
今日の企業には、グローバルなトレンドとして、ESG(Environment, Social, Governance)経営が求められています。
ESG経営は、地球温暖化による気候変動への対策や人権の尊重を重視していく経営であり、そうした規範に対して想定される様々なリスクに対処するためにガバナンス(統治)を効かせていく経営です。また、ガバナンス(管理の強化)により不正や不祥事を防止し、株主や投資家の利益を毀損することなく持続的な成長が期待される経営です。
プロスペクト理論で言うなら「収益の不確実な未知の事業(イノベーション)には投資しないけど、ブランド価値を毀損するレピュテーションリスクの回避には費用を投じる」という心的作用が根底にあり、そこには「限定合理性」が作用しています。
2.経済発展の源泉 “破壊的イノベーション”
今日の社会では、環境問題や人権問題への社会的意識が高い パーソナルニーズ を具現化する顧客経験価値の創造が求められています。顧客満足を得るためには、高度経済成長期のような「画一的な大量生産・大量販売・大量消費・大量廃棄」といった単純な発想から、 多品種少量生産・経験価値の販売(提供)・経験価値の消費・少量廃棄 に発想を転換しなければなりせん。そこでは、社会の在り様を根底から変革する「破壊的イノベーション(以下、ディスラプション)」が必要となります。
2.1 リスク対応の裏返しの機会(ビジネスオポテュニティ)
ESG経営は、リスクマネジメントの裏返しとして「資源効率(経費削減)、エネルギー源(エネルギーコストの削減)、製品及びサービス(グリーン消費の拡大)、市場(投資の呼び込み)、レジリエンス(気候変動リスクへの対応力)」といった新たな機会(ビジネスオポティニティ)を創出すると言われています(#2 pp.22-23 を参考に記載)。しかし、そのような機会の創出がディスラプションにつながると言えるのでしょうか?
筆者の考えとしての答えは「否」です。確かに投資を呼び込むには、投資家の利益を毀損するリスクを抱えている訳にはいきません。しかし、リスクに対処する発想だけではディスラプションを起こすことはできません。
2.2. 社会的価値創造の視点に立ったパラダイムシフト
そもそも、これまでのプロダクトアウトの発想のままではディスラプションにはつながりません。それでは、もし、本当にディスラプションを起こそうとするなら、どうしたら良いのでしょうか?
答えは、社会に視座を高めることです。そして「社会的価値創造の視点に立ったパラダイムへのシフト」を起こすことです。
冒頭に記した「限定合理性」からすると、考える範囲が広くなり過ぎて立ち竦(すく)んでしまうかも知れません。しかし、社会の趨勢を捉えた新たな分野には大きな収益源となる機会があります。先んじて事業化して新規市場の需要をつかめば先行者メリットも期待されます。社会的価値を求めるニーズが膨らみつつあるうちに、二番煎じになる前に、自ら強い意志を持ってパラダイムシフトを起こさなければなりません。
3.社会的価値創造のパラダイムシフトとディスラプション
3.1. 社会的価値創造のパラダイムシフトを起こす仕組み
社会的価値創造のパラダイムシフトを起こすと言うと茫洋としてしまうかも知れませんが、以下の戦略を考えれば、その解(ソリューション)は手が届くところに見えてきます。
- 多様性を包摂する社会的な視点で思考できる人を増やす(これは人的資本経営に他なりません)
- 自社の製品ではなく、製品の根底にある基幹技術を社会的価値創造のプラットフォームとして捉え直す
- 創出したプラットフォームを基盤として協業する仲間を増やす(今日的には、ビジネス・エコシステムと呼ばれるものですが、社会関係資本経営とも言うことができるでしょう)
ビジネス・エコシステムには、自社だけでは乗り越えられない「限定合理性」を、協業によって乗り越えていけるようになるというメリットがあります。
3.2. 社会的価値創造のパラダイムシフトとディスラプションの関係性
製品の根底にある基幹技術を社会的価値の創造に結びつけていくなら、自然科学的な意味でのパラダイムシフトと言えるでしょう。さらに、ビジネス・エコシステムを形成して社会システムの変革に結びついていくなら、社会科学的なパラダイムシフトと言えるでしょう。これこそがディスラプションと言えるイノベーションです。
3.3. 社会的価値創造のパラダイムシフトを起こすフォーサイト
少しハードが高くなるかも知れませんが、「基幹技術を社会的価値創造のプラットフォームとして捉え直す」ためには、社会の趨勢を捉えて、自ら社会発展の方向を見定めるフォーサイトが必要です。
フォーサイトには、情報技術(ICT)を活用したデータドリブン経営の仕組みが役に立ちます。普段からデータドリブン経営によって、社会を俯瞰して先々の状況を見通す能力を養っておかなければなりません。
3.4. ESGのフレームワークの役割
ディスラプションには多額の資金が必要となります。投資を呼び込むためには、合理的に説得できる事業計画が必要です。また、協業する相手を増やしていくためには、魅力的なビジョンが必要です。ここにESGのフレームワークや統合報告書(あるいは、サステナビリティ・レポート)が役に立ちます。
4.最後に
企業には「限定合理性」によって生じる限界があり、また、プロスペクト理論が示すように、そして、日本社会の特性も相まって、これまでは、イノベーションを起こすよりも、企業の存続や既存事業の維持に力が注がれてきました。
しかし、企業を成長させていく原動力はイノベーションです。これからの企業経営にとって大事なことは、リスク対策に駆り立てられる経営ではなくイノベーションを起こす経営です。地球温暖化問題を含む自然環境の保護や多様性を包摂する社会の実現への気運が高まっている今日においては、社会的価値創造のディスラプションに注力しなければなりません。
本メルマガは弊社ホームページのコラム “未来への歴史” をもとに作成しています。“未来への歴史” とは、サステナビリティの未来社会を思い描いて日々書き綴った記事を思考の系譜を歴史として振り返ることができるようにと意図したものです。
- 『日本人の思考様式』の詳細はこちらのサイトをご参照下さい。
- 『“社会的価値の創造”にどのように取り組むか』の詳細はこちらのサイトをご参照下さい。
- 『サステナビリティ経営の戦略思考モデル』の詳細はこちらのサイトをご参照下さい。
- 『トランスフォーメーション戦略構想モデル』の詳細はこちらのサイトをお読みください
- 『 ビジネス・フォーサイト』の詳細はこちらのサイトをお読みください。
- 『“社会的価値の創造”の潜在機能の導出』の詳細はこちらのサイトをお読みください。
サステナブル・イノベーションズ株式会社 代表取締役社長 池邊純一
【参考文献】
- ハーバート・A・サイモン、松田武彦.高柳暁,二村敏子訳、『経営行動 経営組織における意思決定プロセスの研究』、ダイヤモンド社、1965 (原著初版:1945,第三版:1976)
- KPMGサステナビリティバリューサービス・ジャパン、『TCFD開示の実務ガイドブック -気候変動リスクをどう伝えるか-』、中央経済社、2022.4.20